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天満敦子

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今朝のこと。
洗濯物を干し、庭を掃き清め、コロの毛ずくろいをする一連の朝の日課を済まし、テレビに目をやると、天満敦子さんが映っている。

『世界わが心の旅』の今日の旅人は天満敦子さんだったのだ。
急いでワンタッチ録画をするが、時間はすでに45分になっている。

あと15分しかないじゃないの。あーショック。
でも後の祭り。

しかし、憎っくきテレ番。再放送とはいえゲスト名ぐらい載せてくれたっていいじゃないの。

最後の部分しか見ることができなかったが、「望郷のバラード」はしっかり聴けた。

作曲家ポルムベスクが、故郷をしのび獄中で書いたと言われるこの調べ。

もの悲しくて、せつなさが胸に迫ってくる素晴らしいヴァイオリン の音色。

涙をためながらヴァイオリンを弾く天満さんの姿にも感動。

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by rampling | 2004-03-31 15:51 | 音楽

草むしりをする。

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ふと気がつけば、我が家の庭はいつのまにか草ぼうぼうで、これから咲くチューリップやフリージアも雑草の中に埋もれている。

すぐ腰が痛くなるので草むしりが嫌いなわたしだが 、これじゃあんまりと重い腰をあげ草むしりをする。

ガーデニングは主人の趣味なので、わたしは口も手も出さないのだが、草むしりはわたしの役目らしい。

主人は植えるだけ。「きれいなお花ですね、」と褒められるのも主人。

私自身きれいな花を見せてもらっているので文句は言えないが。

老後の楽しみに、わたしもそろそろ主人に花や野菜作りを教えてもらおうかしら。

写真は我が家のクロッカス。
少々くたびれかけているみたい。
by rampling | 2004-03-30 14:57 | 思ったこと

これもわたしの好きな映画のひとつ。最初に見たのは何年前だろう。
キンキン 口うるさい自分勝手な嫁。家事はすべて姑にやらせ、自分は朝から遊びあるいているくせに、姑にはやれ賛美歌を歌うな!やれ走るな!といちいちこうるさい。
その上姑の年金まで取り上げようとする。見ていてまったくイヤな嫁である。
それなのに頼りの息子は嫁のいいなり。

毎日嫁に押さえつけられ鬱屈した日常を過ごす姑。
こんな狭い家に閉じこめられて死にたくはない。
これじゃ死んでも死に切れない。
かつて住んでいた懐かしの我が家のあるバウンティフルへ帰ることを夢見る。
嫁の留守を見計らっては脱走を試みるのだが、そのたびに見つかり連れ戻されてしまう。
だが今回は脱出に成功する。子供のように喜び期待に胸ふくらませ、いざ故郷バウンティフルへ。

道中のバスの中ではすっかり解放され興奮しっぱなしの彼女。
途中さまざまなことが起こるのだが、その度に回りの人々に助けられどうにかバウンティフルへたどり着く。
だが夢にまで見た故郷の我が家はすっかり朽ち果て見る影もない。
逢いたかった親友も幼なじみもすでに亡くなっていた。
ガッカリしながらも部屋の隅々まで眼を走らせ思い出をたぐり寄せる。
だがもうそこには何も残っていない。

彼女に元気をくれたのは家ではなく、人間でもない。
川が流れ、木々が茂り、小鳥のさえずりが聞こえる、この土地の変わらない静けさだったのだ。
家も人もやがては消えてしまう。
すべてのものはとどまらず変化していく。
過去にしがみついていてもしょうがない。
静かなあきらめの気持ちが彼女の心を満たしていく。

現実から逃げてばかりいた自分。
帰ろう。そして強く生きていこう。
現実にしっかり向き合い生きていくことを決心する。
この旅は彼女が元気を取り戻し、あらたに出発するための旅だった。
家に別れをつげ静かに車に乗る。
新たな出発を誓い、今度は自分の意志で狭い窮屈な日常に戻っていく。

エンディングの曲が涙を誘う。
ジェラルディン・ペイジ。
このおばあちゃんの表情のひとつひとつがが可愛くて、切なくて、いじらしくて、心からいとおしくなる。
わたしにとって、これこそ何度見てもしみじみ泣けてしまう映画。
by rampling | 2004-03-25 16:29 | 映画 ・ドラマ

教養主義

作家の杉本苑子さんが書いていました。(ちょっと何の本だったかは忘れてしまったのですが)

彼女が大学の国文科に入り、初めての授業のときに先生が「皆さんはどんな作家の作品が好きですか」とクラスの皆に聞いたところ彼女は「はい、吉川英治の宮本武蔵が好きです。」と胸を張って
答えたところ、クラスの皆はドッと笑ったそうです。

皆はきっと定番の『鴎外や漱石』の名を期待していたのでしょう.

我が敬愛する田辺聖子さんも言っております。

「小説には、こちらがうまい、こっちが面白い、というのに、べつに万古不易の物指しがあるわけではなく、人によって評価が分かれる。」

「教養主義的な義務感から、ノルマを果たすようにして、歯をくいしばって読んだ記憶があるドストエフスキ-やバルザック。 

何十年も経ってみると、そういう付け焼き刃の教養は、歳月の波に洗いながされて、沈殿しているのは、かつて乱読した通俗ヨミモノの記憶ばかりである。」

私もこの通りだと思います。
by rampling | 2004-03-25 15:18 |

 「正岡子規」

毎朝、新聞のテレ番を見て、これはぜひ見たいと思うものをビデオ録画してるのですが、これがまー溜まること、溜まること。
机の上に積んであるのですが、見るのが追いつかないの。

その溜まったのを夜のつれづれにじっくり見ようと思うのですが、本も読みたいし、他に面白そうな番組もあったりで、なかなかねー、そんなんしてるうちに何だか眠くなってくるし、という訳で積んであったビデオから正岡子規のシンポジウムを録画したものを見たのですが、私は俳句も短歌もやりませんし、正岡子規については漱石の友人というぐらいの認識しかなかったのですが、そのシンポジウムにたまたま私の好きな女優の真野響子さんが出ていたのでビデオに取っておいたのですね。

このシンポジウムのテーマは辞書にはないが、共に創るという意味の共創という言葉を使って子規について新しい光をあててみる。
共に生きる、共に創るという観点から子規を見ていったらどんな新しい子規像が見えてくるのかという趣旨のものなのですが.

そこでちょっと子規のご紹介。
愛媛県松山市、人口47万人の城下町は正岡子規の故郷でもある。
正岡子規が生まれたのはちょうど明治維新の年でした。

父が松山藩の武士であったこともあり、幼い頃から漢詩や俳句などの伝統文化の教育を受けて成長する。幼年時代、子規が仲間たちと創刊した回覧雑誌では自ら編集長をつとめ、一人でいくつものペンネームを使い分け才気溢れる文章を発表している。

この頃からジャーナリストとしての才能が芽生えていた。

16歳で上京、18歳で現在の東京大学に入学し、ここで終生の親友夏目漱石と出会う。文明開化の時代、都会での学生生活を楽しむ。

その後日本新聞に入社、記者として健筆をふるう一方で俳句の革新運動にも乗出す。日本の近代俳句はこの子規によって生み出されることになる。

しかし子規は結核という当時は不治の病に冒され、六尺の床に寝たままの生活を余儀なくされる。結核カリエスに冒され、子規は晩年の6年間東京の根岸の子規庵で過ごすのだが、子規庵の六畳の空間こそ、子規自らの生きる証となるメッセージを発信する大切な場所だった。

病気による痛みに絶叫し、号泣する苦しみを経験しながら晩年の随筆「仰臥漫録」や「墨汁一滴」が
書かれた。それが25巻の子規全集としてまとめられている。
子規 享年 35歳。

彼がしたことは俳句の革新、短歌の革新、そして最近高く評価されているのは文章の革新ということ。もうひとつ、とても大事なことは、生きている日常すべてを楽しんできたということ。

このシンポジウムのメンバーは今まであまり子規について論じたことのない新鮮な方々で、司会は京都教育大の教授であり俳人でもある坪内稔典さん、パネリストは筑波大教授の青木彰さん、女優の真野響子、作家の藤本義一さん、多摩大学長のクラークさん等で、メンバーの個々の正岡子規のイメージを語ることから始まったのですが.

彼等の座談を紹介すると、彼は本物の新聞記者だった。地位とか名誉とか金銭とか、そういうものに淡白でこだわらなかった。友人の寒川鼠骨が就職のことで相談に訪れた時、最少の報酬で最大の仕事をするのが人間というものだと説得する。

そして彼は一生新聞記者の給料で暮らし、俳人や歌人としてはほとんど収入がなかった。
そして面白いことに自分の墓碑名の最後に月給40円と書いて死んでいるんですね。

寝ながら美味しいものを食べて贅沢してるがそれは皆友人によって賄っていたのではないかと響子さんは推測してるのですが。
寝ていてモノを言い、モノを考え、モノを書く、ということは大変なのだが子規はこれを最後まで揺るがず実行していた。

日本の近代は子規から始まっていて、子規が生きた時代、何が大事にされたかというと個人で、目指したものは個人主義で、たとえば何が美しいかの基準はどこにあるかというと個人の感情にある。
写生ということは個人の目で見るということ。

江戸時代の人は意外と個人の目で見ていなかった。例えば何かの言い伝えがあると皆その見方でしか見ない。子規は自分の目で美を発見しようということを言い、そういう面では明らかに近代の人である。

だが子規のもう一つの大事な面は個人だけですべてのことをやろうとは考えなかった。常に仲間と一緒に何かをすることを好んだ。

それは小さい時から始まっている。回覧雑誌を作り、漢詩の研究会を作ったり、病気になってからも枕元には毎日のように友人達が集まり句会をしたり、文章の研究会をしたりする。

又万葉集を勉強したり、蕪村の句集を互いの意見を出し合ったりして、みんなで読み合う。

みんなと一緒に何かをしていくというのが子規のもう一つの面で、自分というものに閉じこもらないで、いつも自分を他人の中に開いていくということをしていた。

さらに身近なことがらにこだわりそこに楽しみを見出していった。
昔から柿が大好きで柿ばかり食べていて、奈良に行った時に柿を食べていて「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句が出来た。

あれは簡単にできたのではなく柿を食べつづけていたから出来た句だそうである。(^^)

晩年病気になってからは健康な人は皆健康を楽しむように病気の自分は病気を楽しもう、と考えて病人としてできることを全て楽しみとしてやる。
その一つが食べること。
1ヶ月の家賃が六円15銭で、又1ヶ月の刺身代が六円15銭、家賃と刺身代が一緒。贅沢をして食べている。これは病人が病気を楽しむ工夫だった。これが子規という人間の魅力なのかなと思う。

子規のスゴイところは果物でもむいて持って来させない。ナイフをつけてお皿で持ってこさせる。
そして自分で皮をむく。そして皮も食べる。
これが子規がとても食いしん坊で味を楽しんでいたということがよく分かる。

子規の一番好きな色は赤だった。枕元に地球儀を置き毎日それを回して、赤く塗りつぶしてあるのが日本なのだが、それが出てくると指で止め、それからいろいろな発想が湧いてくる。

単に寝ているのでなく地球儀一つから又想像力が増してくる。このように飽きもせず退屈しないで自分の宇宙を守っていた。喀血は赤だがそれも拒否せず、啼いて血を吐くほととぎす(子規)と言い
放っている強さ。

実際のほととぎすは昼夜鳴き続け、口を開いた時に真っ赤な舌が見えるので血を吐くまでといわれた。

彼の好奇心がスゴイ。もう死の床にあるのに自分の見たいもの、行きたいところをズラーっと一覧にしている。その中に活動写真、自転車競争、浅草の水族館が見たいだとか、動物園に行ってヒヒとダチョウを見たいとか、ビヤホールに行きたいとか、自分がもう行けないにもかかわらず行ってみたいという、その好奇心。

彼のこういうところに大変魅力を感じる。子規の好奇心、活発さの原因は自分を他者に常に開いていく、そういう開放的な姿勢にある。

彼は又友人を区分けしているのである。漱石は畏友だとか30人ぐらいの友人を容赦無く分類している。僕はA君 B君は好きだがC君はちょっとダメだとか。
B君はなかなか金持ちだけれどケチであるとか、お金だけ貸してくれる友は金友だとか、いろいろ書いてあり、なかなか面白い。
顔の形も、丸顔だとかベース形とか、そして友人を採点している。
能力だとか、色欲とかを点数でつけていったりする。
しかも、それを残していくということはこれはかなり勇気がいることである。

禅宗の悟りを友人と議論して、悟るということは死ぬことであると子規は言うが、ところが死ぬ前になって悟りの本当は生きることなのだというところに到達してくる。

つまり、悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬ事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きていく事である。

この後、子規のリアリズムについてや子規の女性関係、はたして子規に女性関係はあったのだろうかということに話が及んだのですが、母の八重さんや妹の律さんのガードが固くて女の人はなかなか
彼に近づけなかったのではないか、との結論に至りましたが、さてどうなのでしょうね。

晩年の子規は身動きも出来ないので天井からヒモをたらして、体を動かしたい時はそれを握って動かし、横になりたい時は蒲団の横に作ってある輪っかを持ってずらすという状態だったがそれでも絵を描いたりして楽しんでいた。

肉体的パワーが落ちて行くと同時に精神的パワーが落ちて行くのが普通なのに子規は反対に精神的パワーが上昇していく。

そうですねー。私はこのシンポジウムを通して子規から生きることへの力強い励ましのメッセージを受け取ったように思う。

人間どうなっても生きていかれるものなのだなということ。たとえ病臥にあろうとも自分がその気になればいくらでも楽しんで生きていくことができる。

それにはいついかなる場合でも魂を遊ばせる心の余裕をもつ。

どんな状況に追いこまれても、否定概念ばかりにとらわれず、今の自分の状況を素直に受け入れ、その中で冷静に今できること、楽しめることを模索し実行する。

しかし、そういうことをすでに実行した子規であるが、ビデオを見た後、年表を調べてみると死の前年には母と妹の留守中に自殺を計っている。そして同じ年に、漱石にあきらめたかのような「僕ハモーダメニナツテシマツタ」という手紙を書いている。

そしてこんな記述があるんですよね。うめき、叫ぶのは苦しみに耐えるためである。をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。
併し痛 みの烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙つてこらえて居るかする。

其中で黙ってこらえて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。

死の3日前には「たまらんたまらんどうしようどうしよう」と連呼し、「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」と助けを請うている。

のたうちまわる痛みとたたかいながら、同時に迫り来る死の恐怖にふるえていた、子規の裸の魂にふれるとき、私は子規がとても身近な存在に思えると同時に、言葉にならない、やりきれない愛惜の情が湧いてくる。

by rampling | 2004-03-24 15:47 | 作家

映画『紅いコーリャン』

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『紅いコーリャン』

チャン・イーモウのデビュー作である 『紅いコーリャン』はまだ見ていなかったのでDVDを買ってきた。

この作品、私はてっきり造り酒屋の未亡人と大酒飲みでロクデナシの使用人との間の純愛?を描いたものだと思っていた。

だが、途中からの日本軍の唐突な出現で、日本軍の残虐さを知らしめる内容と変化していき、抗日運動の様を呈してくる。

これは日本人であるわたしにとっては、かなりショックを受ける内容で、憂鬱で複雑な後味の悪い映画となった。

映像としては中国の広大な大地や、さわさわといっせいに風になびいているコーリャン畑。鮮烈な赤という色がいきいき息づいて、その強烈な色彩には圧倒される。

by rampling | 2004-03-23 15:09 | 映画 ・ドラマ

舞台はニューオリンズ。

シャカシャカしたジャズが流れる喧騒の中を、見るからにこの場には不釣合いな格好をしたブランチが、妹のステラを訪ねてくるところから物語は始まる。

ブランチは度重なる不幸で全財産を使い果たし、借金を重ねた揚句、故郷の大農園ベル・リーヴを失い、触れられたくない過去と心の病を抱えて、疲れ果て逃げ出してきた。

落ちぶれはしたものの、南部の裕福な家庭に育ち、プライドは高く、過去においてはその美しさを謳歌していたブランチ。

もはや、彼女には何も無く、衰えかけた肉体があるのみ。

すべてを無くし、財産といったら自身の肉体とその肉体を飾る物ぐらいで、それらが詰まったトランクひとつを下げてやって来た。

ようやっと探し当てた妹の住む町は、ガラスが割れる音や、がさつな男たちの怒号が飛び交う野卑な熱気に満ちた薄汚い町。

どんなに呆れ果て、失望したとしても妹以外に頼る者のいないブランチ。

ステラの夫であるスタンレー。この男は最初の出会いから珍しい虫を見るような目でブランチを見る。

彼はステラの妊娠と生まれてくる子供のことを考えると、先立つものはお金と必死なのだが、そこへ故郷の大農園ベル・リーヴを失った文無しのブランチがやってくる。

ステラからベル・リーヴを失ったことを聞いた彼は、ブランチが嘘をつき、財産を一人占めしているのに違いない、妻の財産は夫のものでもあると、ブランチのトランクをひっかきまわすのだが、出てきたのは借用書の束のみ。

こうなれば、この男にとってブランチは役立たずの厄介者でしかなく、ブランチのやる事なす事が気にくわなくなる。

スタンレーはオドオドした、おもねるような態度で近づいて来ながら、心の中では彼を見下し、軽蔑しているブランチが嫌いだった。

彼女には生まれや育ちに異常に拘る深い差別感情がある。

今ではすっかり落ちぶれて、行く宛てのない身のくせに、かつて属していた上流階級出身を鼻にかける、虚栄心の強い鼻持ちならない女である。

スタンレーに対しても「彼はただの庶民よ、紳士らしさが全然なく、ケダモノの習性を持っている、人間以下の感じさえある」と階級意識をちらつかせる。

だが、それでも、ブランチはまだどこかに幼子のような純粋さを残している。

それに比べスタンレーは、粗野で、強暴で、野獣みたいな男である。気に入らないことがあると、相手かまわず大きな声で威嚇し、暴力で黙らせる。おとなしく会話のできない男である。その上お金に対する貪欲なまでの執着心。

ブランチに対しても彼女のちょっとしたジョークや皮肉に過剰に反応し、チマチマした嫌がらせを繰り返す。

スタンレーのブランチに対する数々の嫌がらせは、コンプレックスの裏返しで、つまり弱さが噛みつかせるのだろう。

しかし、この男は暴力的ではあるが生きるパワーに溢れている。

がさつで下品なスタンレーの友人達の中で唯一人、おとなしくて礼儀をわきまえた紳士的な男であるミッチ。

ミッチとの交流でブランチは失いかけていた人間らしさを取り戻す。音楽に合わせて踊ったり、浮き浮きした気分でつかの間の喜びにはしゃぐ。
それがスタンレーの癇に触り、また荒れ狂う。

ブランチがちょっとでも楽しそう様子を見せるのが気にくわない。

とにかく目障りでしょうがない。ブランチも同じことを考えている。スタンレーが留守の間に「野蛮人に引きずられていては駄目、二人でここを出ましょう」とステラに囁やきかける。ステラもその気になりかける。

その様子を物陰から見ていたスタンレー。これは心穏やかではいられなくなる。

だがこのブランチの説得は不調に終わる。ステラはスタンレーの魅力に負けてしまう。だが、これが夫婦というものなのだろう。

このあたりからスタンレーのブランチへの追い出し作戦が加熱し、凄みを帯びてくる。

ブランチさえ現れなければ、この夫婦はそれなりに仲が良く充実していた。

思わぬ邪魔者であるブランチの登場で、スタンレーはジェラシーとステラを失う恐怖を覚えブランチを追い出しにかかったのだろうか、それとも、財産も何もない文無し女が、ずーっとここに居付くのがイヤだったのか。

ステラにしても夫と姉の板ばさみで苦しく、どちら側にもつけない。

だが頼れるのはステラだけで何処へも行く宛てのないブランチなのである。

ブランチには悲しい過去があった。

まだ世間ずれしていない若くて美しい青年であり、詩作には優れていても、現実の世界では生活無能力者の自殺をしてしまった夫。

ブランチは、その夫に無理解からくる厳しい言葉を投げつけ、彼を自殺に追い込んだという自責の念から逃れられないでいた。

夫を失い、心が弱く、自立できなかったブランチは、身も心もボロボロになり、心の空白を埋めるために男の庇護を求めた。

次から次へと男に救いを求めたが、頼る男は皆ろくでなしで、自分達の欲望を満足させるや、さっさと去って行く、そんな男達ばかりだった。

ついには17歳の少年にまで手を出してしまい、学校にはいられなくなり逃げてきた。

ミッチに過去の不幸な結婚を告白し、彼の胸の中で「ああ、神様はおいでになるのね」とつぶやくシーンは彼女のこれまでのつらい日々を垣間見るようで胸につんとくる。

だがブランチはそれ以外の恥ずかしい過去については口を閉ざし何も語らなかった。それがスタンレーによって調べ上げられ、ミッチに告げ口をされ、隠してきた過去は露呈されてしまう。

ミッチに告白する。

「行く処がなかったのでここへ来たの。若さも失い疲れ果ててね。

そして出会い、あなたの求愛がどんなに救いだったか。やさしいし、世間から守ってくれると思った。

でも身の程知らずの希望だったようね。過去に追いつかれて引き戻されてしまった。

身内で瀕死の老女を看取ったことがある。衰え果てて、残るのは後悔と非難だけ。「あんたのせいで財産を無くした」遺産など血染めの枕カバーくらいだったのに。

彼女はそこに、私はここにいて、死はすぐそばにいたわ。死の対極は欲望。
わたしの行動のどこが不思議なのよ」そんな告白をしたブランチに対して、ミッチは「もう結婚する気は無くなった、そんな汚れた女を家には入れられない」と下劣で破廉恥な行動に及ぼうとする。

そんなミッチの行為でショック状態のブランチに、又もやスタンレーが牙をむく。そのスタンレーの行為で極限状態だったブランチの精神はついに異常をきたす。

痛ましいとしか言いようの無い、見るたびに心が震えてくるエンディングである。

ブランチの、すべてを失くし、それでもわずかに残った消え入りそうな
プライドを保つためにつく哀しい嘘、それがそんなにもいけないことなのか。

あの時代、処女性が問われる時代ならばミッチの失望、落胆も分からぬでもないが…それにしてもである。

ブランチの過去を聞かされた後のミッチのあの変貌振り、あの無礼な態度はナンダ!卑しい男である。

だが、ブランチ自身、ミッチを愛しているというよりは、ただ休息できるおだやかな生活が欲しかっただけなのだろう。

スタンレーはブランチの弱みを握り、追い詰めていく卑怯者である。

表向きは親友が罠に嵌るのを黙って見ていられるかと、己が行為を正当化するのだが、本心はブランチが幸福になるのが許せなかったのだろう。

だが、そうせずにはいられない程に膨れ上がった、ブランチに対する憎しみ。

しかし、愚かですよね、スタンレーも。ブランチがミッチと結婚して、快く出て行ってもらえれば、お互いにハッピーで終わったのに。

憎しみの強さというか、感情ばかりが先に立ち、理性が追いつかない男である。

ブランチの過去を暴き、それをつきつけることによって、彼女の最後の拠りどころであるミッチとの結婚をぶち壊し、それによってスタンレーは一体何を得たというのだろうか。

スタンレーにとっての拠りどころはステラしかなく、彼女にしてみれば、唯ひとりの身内である姉を狂気に追いやり追放した男と、この先何事も無かったかのように、暮らしていけるのだろうか。

原作者のテネシーウイリアムズは、ただ現実を、人間の欲望、人間の本質的な明暗を描いて見せただけだと言うが、あまりにも辛い結末である。
by rampling | 2004-03-22 15:22 | 映画 ・ドラマ

お墓参り。

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今日は晴れたので午前中はお墓参り。

昨日は雨だったせいか今日こそはと押し掛けた人たちで駐車場はゴタゴタ。

帰宅するや今度はさくら、チャー、ミミとコロのお洗濯。

ここ2、3日ぐずついた天気が続いたので我が家の猫たちも犬も汚れちゃってまっくろけ。

さくらとコロはおとなしくされるままなので洗いやすいのだがチャーとミミはアチコチ移動しては逃げようとするので大変。

ジーパンもぐっしょり濡れちゃって冷たいこと。

お昼を食べて、さーこれからがわたしの時間。
ゆっくりしましょう。
by rampling | 2004-03-21 13:56 | 思ったこと

『神も仏もありませぬ』

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タイトルに惹かれて、佐野洋子さんの『神も仏もありませぬ』を読む。

この人の作品を読むのは初めて。

老いの現実。死について。自然について。
村人との交流を通して感じたこと、考えたことなどがさまざまに綴られている。

彼女の放つ一言一言はストレートで強烈。
だが核心をついているので小気味いい。

生きがよく、歯切れのいい文章の面白さに引き込まれ、吹き出したり、しんとしたり、
同じ反応を何度繰り返したことだろう。

装画に見る、どこ吹く風というような雰囲気の大胆でセクシーな余裕のある絵はきっと彼女
そのものなのだろう。
by rampling | 2004-03-20 12:29 |

映画『アイリス』

イギリスの女流作家アイリス。

男友達も多く、自由で奔放だった若き日のアイリス。

今は一つ一つ記憶を失っていく恐怖 の只中にあるのだが、アイリス本人は勿論、夫も妻の異常を認めようとはしない

自ら健在の証を求めるかのように書く。書かねばならない。書けなくなったらお終い。

やがて医者の単刀直入なことばで観念する二人。

無表情。無関心。噛み合わない会話。

自分の部屋も、ドアの開け方も、あれほど好きだった泳ぎさえも忘れてしまったアイリス。

ついに徘徊が始まる。
ショックを隠しきれない夫。

夫は懸命にアイリスの面倒をみるのだが、ふとしたところに男の鈍感さを見せつけられる。

やがては施設に向かうことになるアイリス。

無神経な夫の言葉に傷つき昔の親友と静かにダンスを踊るシーンが印象的。

女同士のいたわりに満ちた優しさ。

夫役のジム・ブロードベントの目の演技が見事でした。
by rampling | 2004-03-19 15:30 | 映画 ・ドラマ