私の父は頭が良くて勤勉でせっかちで、家では威張りくさっていた。一生、刻苦勉励だったが、しょせんは二流三流の人だった。
それも息子から見れば、二流まで這い上がってきた無名の人である。この父を私は嫌っていた。
私自身に子供ができるまで、父のような男にはなりたくないと思っていた。
子供のころから私は父親のことを恥ずかしく思っていた。恥ずかしくなった原因のひとつは、父の立小便である。
小学生だった私が夕方まで原っぱで遊んでいると、夏であれば、カンカン帽に薄いクリーム色の背広、そしてステッキをついた父が帰ってきて、空き地の前でかならず立小便をした。それが毎日の習慣だった。
父は世の父親とちがうのではないかと思っていた。けれども、ほかの父親の姿は少年の私には見えなかった。
父親がいなければどんなにいいかなどと考えていたのだから、私はじつに可愛げのない息子だった。
「アル・カポネの父たち」を書きながら、私ははじめて知った。
父は私を愛していたのである。そのことがわかったとき、小説を書いてよかったと私はおもった。父は深く深く私を愛していた。
その小説のなかで、私は父の恥ずかしいところを書いた。書くのは気がすすまなかったけれども、そこのところを書かなければ小説を書いたことにならないとわかっていた。
その一つが、父が上京するときに、私にくれた葉書である。毛筆で書いた葉書だった。
父はときどきつぎのような手紙をくれた。
「×月×日。父は上京する。汝は部屋をきれいにしておけ。父」この「汝」にはまいった。
父は何様のつもりだろうかと苦笑した。
百姓の小伜だった父、最後は福島県のある都市の税務署長で終わった父、そういう男がどうして息子を「汝」とよべるのか。
そんな父のことを小説に書きたくはなかった。できることなら、伏せておきたかった。
しかし父に触れないわけにいかなかったので、恥じを告白するつもりで書いた。そして、書いているときに、父が私を愛していたことをひしひしと感じたのである。
抜け毛を見て、いたましいと叫んだ父は、実は可愛げのない陰気な息子を笑わせるためだったのではないか。
もちろん、惜しかったにはちがいないが、そばに自分が愛してやまない虚弱な息子がいたから、わざと大げさに「いたましい」と叫んでみせたような気がする。
立小便だって、あれは父なりの、息子を楽しませるパフォ-マンスではなかったかとも解することができる。
笑わない父だったが人を笑わせた。父のちょび髭は、本人はそれで威厳がつくと思っていたらしいが、私たち兄弟の笑いを誘った。
毛がないのに髭なんか生やしてと蔭で私たちは言って笑っていた。父に愛されたなどと書くのは照れくさいことだし、それこそ恥ずかしいことだ。
しかし、小説を書いていたとき、父が私をじっと見る目をはっきりと思いうかべることができた。
私を見ている父の姿がはっきりと見えてきたのである。
その目はつねに変わらなかったように思う。
父はいつも同じ目で私を見ていた。それは、家庭でたいてい目を三角にしていた父にしては、じつに優しい目だった。私が無事に生きていくことを切ないまでに願っているような目つきで、始終私を見ていた。
小説を書かなければ、それがわからなかった。それが私のファーザ-ズイメージである。