放送大学の講義を聴いたことありますか。
私は放送大学生ではないのですが、興味のある講義は、お台所や、お風呂の掃除なんかをしながら時々聴いているんですね。
これは森茉莉の文学世界について、文芸評論家の小島千加子さんにお話を伺うというもの。
小島千加子さんは、文芸誌「新潮」の元編集者で、かつては森茉莉の担当編集者であり、森茉莉とは1958年から森茉莉が亡くなるまで30年近く親しい交流があったようで、今年、森茉莉生誕100年記念として、筑摩書房より刊行された全8巻にわたる『森茉莉全集』も彼女のお仕事とのこと。
筑摩書房の『森茉莉全集』なんて私は全然知らなかったので、検索してみたら、確かにありました。
これは復刊リクエストなるものから実現したものみたいですね。限定350セットとか。
1冊の値段が約7000円で全巻で60400円。結構な値段ですがもちろん完売で在庫0。
私は82年に新潮社から刊行された『森茉莉全集』全6巻を持っているのですが、こちらは1冊1600円。この違いはなんじゃ。
確かに版の違いや装丁の違いはありますが、収録されている中味に多少の差し替えはあったとしても、さほどの違いが無いような気もします。
ここで森茉莉の紹介。
森茉莉は森鴎外の長女として明治36年に東京に生まれ、50歳を過ぎた頃から本格的な作家活動を始め、昭和62年に84歳で亡くなる。
森茉莉は父鴎外の思い出や、幼かった頃の日々のことなどを、情感豊かに描いたエッセーや、夢と現実が入り混じる絢爛たる小説、さらには辛辣な文明批評など幅広い広がりを持つ文学者である。
この講座は対談形式で進行していくのですが、聞き手は誰なのでしょうか。紹介がないので分かりませんが、最初は森茉莉との最初の出会いと、エッセイストから小説家へ転身していく時期のことを話される。
小島千加子さんが初めて森茉莉に逢ったのは、森茉莉が初めて日本エッセイストクラブ賞を取った作品「父の帽子」という父鴎外の思い出を書いた随筆集を出した次の年。
小島さんはこの人は森鴎外のことだけじゃなく、自分自身のことをも書くことが出来る方だろうという気がして、小説を頼もうと思い、アパートを探し、訪ねて行ったが留守なのでドアに名刺を挟んで帰って来る。
すると翌日森茉莉から電話があり、下北沢の風月堂で会う。その時、森茉莉は
簡単な上着にスカート、そして買物籠をぶら下げて、飄然という恰好でやって来る。
そして何の挨拶もなく、いきなり「私は弟の類をすごく愛していて…」なんていう語り口から始まり、千加子さんとしてはどういう風に話しを受け止めて良いのか分からず「まー随分変わった方だな」という印象を受ける。
(萩原葉子さんも、茉莉さんは世間的なおざなりの挨拶は一切抜きでいきなり核心へ突進していくような感じだったと書いている)
これが昭和33年のことで、森茉莉が55歳の頃で「父の帽子」と「靴の音」の2冊を出していて、これ以後本格的に作家活動を始める。
しかし、鴎外に関するエッセーから、突然小説の執筆となると森茉莉も少なからず戸惑い、尊敬する室生犀星に意見を請うハガキを出している。
犀星はどんどんおやりなさい、あなたなら出来るでしょうと励ました由。
(ここのくだりは森茉莉のエッセーの「室生犀星という男」のくだりに詳しく述べられているのですが、かなりのプレッシャーでノイローゼになりかけている)
犀星のことばに励まされ、幾つか短編小説を書くが、最初の小説は婚家のことを書いた「暗い目」という作品で、犀星にも誉められる。
それで茉莉は自信を持ち、ある一時期に自分が経験したこと、自分の身辺で起こったことなどを次々に書く。
それが「クレオの顔」これは最初はハゲ鷹という題だったのだが後にクレオの顔に直す。それと「濃い灰色の魚」
これらについて犀星のコメントは「茉莉さんは文章は良いのだが、家に例えて言えば、どこが出入り口か裏口か廊下だか分からない書き方をしている、もう少し、そういう処に気をつけて書きなさい」と言われる。茉莉は有難い忠告として受け止める。
犀星は茉莉の文章の質というものを高く買っていた。
次に森茉莉の歩みについて、特に文学者としての展開を成長に
からめて話して頂く。
茉莉が鴎外の膝下にいた時期は、ただ鴎外に甘えていればすんだ揺籃時代で、将来自分が何になりたいとか、はっきりした目標は持っていなかった。
後から聞いた話しでは絵描きになりたいという希望はあったが、良家の子女として、すんなり嫁にやりたいという鴎外の強い思いがあり、それは実現しなかった。
そして、やがて結婚となり山田家に嫁ぐ。この時代が茉莉が初めて鴎外の手から離れて現実というものに関わった時代。
茉莉は結婚しても頻繁に里帰りするような状態で、現実というものがどんなことか、結婚というものがどんなことか、はっきり認識していなかった。
その中で夫のフランス文学者である山田珠樹とのヨーロッパ経験が2年程あり、自己啓発のチャンスを得る。その時に初めて自分というものの本質に目覚め、開眼する。
結婚をし、ヨーロッパへ行き、そのヨーロッパに行っている間に父鴎外が大正11年に亡くなる。
そしてヨーロッパから戻ると現実の生活が妙に侘しくなる。それは現実生活が嫌だとか、結婚生活が嫌だとかではなく、何か自分自身の内に目覚めたもの、自分の中に「こんなものじゃないわ」というムラムラとした思いが芽生え、結婚生活がつまらなくなる。
そしてヨーロッパから帰って来た2年後に、幼い2児を婚家に残し家を出る。それから物を書きだし始める。
茉莉はもともと美的な感覚に優れ、フランス文学が好きで、モーパッサン、アルフォンス・ドーデ、ピエール・ロティの短編などを翻訳したり、鴎外の思い出や演劇時評を書いたりしながら文章の世界に入って行った。この時代は自分の文章を定着させる、助走時代ともいえる時代。
昭和30年代に入り、父の思い出をまとめて「父の帽子」というエッセーでデビューする。そしてこれが日本エッセイストクラブ賞を取り、脚光を浴びる。
これが昭和32年。そして33年頃から小島千加子さんとの出会いの中で本格的に作家として活動を始める。
結果として、最初の16歳で結婚するまで、鴎外の下にいた時期というのが、作家としての森茉莉の基盤となる一番重要な時期となる。
鴎外は生涯を通して森茉莉の神様であり得た。パッパがそう言った。パッパだったらこうした。パッパとこうであった。常にそれが付いて回った。
どのくらい付いて回ったかというと、茉莉自体が鴎外との思い出に書いている通り、子供に着せる洋服から着物から、柄までも全部鴎外が選んで決めている。
当時、洋服というのは珍しかった時代だが、鴎外は洋服の見本帳をドイツから取り寄せ、帽子はこれ、靴はこれといった具合に注文している。
食べ物も茉莉を有名店へいろいろ連れだし、贅沢させている。陸軍省にいて奥さんに用を言いつける時も茉莉を同伴させ、帰りは精養軒に寄るとか、歌の会の観潮楼へも同伴させて、座敷にはべらせている。
また鴎外は暇をみては茉莉を膝の上に乗せ、グリム童話集やアンデルセンなどを読み聞かせたりしている。
そんな鴎外の膝の上で、茉莉は鴎外のくゆらせるウエストミンスターのパイプの煙を、とてもきもちの好いもののようにその匂いをかいでいる。
このように鴎外とのコミュケーションが濃密に成り立っていた。
また鴎外は自分のヨーロッパ体験を日常生活に反映させ、側にいる茉莉にもヨーロッパの話を子守歌のように聞かせている。
茉莉はヨーロッパの香りのする品々を近くで目にし、それらを自然に受け入れている。
鴎外を通じてヨーロッパというものがアタマの中に入っている茉莉は
19歳でパリへ行き、それを実感する。
大切なことは、詳しい会話を交わしている訳ではないのに茉莉は鴎外の奥行のあるひととなり、人間性、その精神貴族のような所を側にいて黙って吸収していたということ。
茉莉が鴎外から受け取ったものは非常に大きいものがある。
鴎外の優しい人間性、家族への気づかい、茉莉もそんな父親の愛情を受けっぱなしではなく、作家活動の中で大いに形となってくる。
鴎外と茉莉の親子関係が小説の中で反映され、その集大成となったのが最後の長編で10年もかかって書き上げられた小説の『甘い蜜の部屋』その時茉莉72歳。
これはモイラという無口で自己中心的も甚だしい、自分の気に入るものなら何でも受け入れるが、ちょっとでも気に入らないと態度ではねつけるという特殊な少女とその父親との濃密な愛情関係を描いたもの。
《モイラは私である。私はモイラを、私の性格で描いたが、人のいいところだけは削った。そうして女らしい小狡猾さ(こずるさ)と意地悪とをつけた。そうしないと、小説がつまらなくなるからだ。》
作家がいろいろ子供の時のことを思い出して、特に父親や母親についてエッセーを書くということがあるが、森茉莉の場合は長編小説の中で自分の実際の体験を、さらに虚構の世界の中で生かして作品化することが出来たということが文学者としての森茉莉のすばらしさである。
この親子と対比されるのが同じく明治の文豪と呼ばれる幸田露伴とその娘である綾の親子。
露伴は非常に手厳しく綾を躾る。綾は露伴の命じるままに部屋の掃除から炊事、洗濯をすべてこなし、さー露伴から誉めてもらえるかと思えばさにあらず。
一度も誉められたことがない。習い事なども一切せず露伴の日常茶飯、立ち居振る舞いから食事の作り方、お客のもてなし方、それらすべてを露伴に気に入られんが為に行なったこと、それが終生彼女の生きる姿勢を貫いた。
文章は露伴のそれとは違うが、気づかい、息づかい、物を見る目はやはり露伴のものである。直接生活のことで露伴からアレコレ注意を受けたことが綾の日常に対する目くばりになり、それが全部綾の文章に生きている。
森茉莉の場合は父親の文体とは似ていないが、何を影響されたかというと翻訳で、鴎外の即興詩人とかが頭に入りこんでいて、鴎外の文字使いの好みが茉莉の文学に受け継がれている。
茉莉の小説を読んでいるとヨーロッパ的な感じを受ける。舞台自体は日本なのだが、そこで展開されている世界が独特でヨーロッパ風な香りがする。
鴎外のヨーロッパ趣味は、しらずしらず茉莉の中に継承されている。
しかし、茉莉は多分鴎外の小説よりも漱石の小説の方が好きだったのではないかと千賀子さんは言っている。
茉莉には鴎外の作品で現代のことをサラっと書いている「青年」とか「はなこ」は好きだが歴史物はゴメンだなという気持があった。
《…鴎外は知識人としては偉かったが小説家としてはそう偉くなかった。鴎外の小説は理屈の骨が小説の中にがっしり建っていて、一種の知的な美を光らせているが、荷風の「おかめ笹」漱石の「我輩は猫である」犀星の「杏っ子」のように面白く素晴らしい小説ではない。
…父親としては大好きだが、小説家としては永井荷風や三島由紀夫氏が言う程偉くはないような気がする。
私は不肖の子で鴎外を識る人が一番いいと口を揃える「渋江抽斎」はじめ、一連の歴史小説は退屈で死にそうである。
渋江抽斎で一つだけ面白いのは抽斎がなめくじが嫌いで、闇の中を歩いていても、いるのがわかったというところで、私も極度のなめくじ嫌いで、なめくじがいればすぐわかるので困っているからだ。
地中海的な、フランス的な美が明るく輝いて、香りと音楽が感じられる「花子」のような、初期のヨーロッパ的なところに座っていた父親が、いつ抽斎や、古本や紙魚の世界に引っ越したのか、私は知らずにいた。
私は誰が何と言っても植木屋や紙魚(しみ)の匂いは嫌いで、父親の小説の中では「花子」が好きである》
茉莉の理屈ぎらいは幼い時に鴎外に勉強を教わり、その時の鴎外の怒っているような真剣な烈しさに煩さを感じたことが原因なのかもしれない。
ぼんやりアタマで、ロマンチックで透明な夢のある美しい小説が好きな茉莉にとって、明晰で論理的な口やかましい小説は好きではなかったのだろう。
《小説の中で理屈を言ってるけど、理屈を教わるために小説を読む人なんていないわ》~黒猫ジュリエット
茉莉は小説の構想を練る時には映画雑誌のスチールなどを参考にし発想やイメージをそこから得ている。
新聞や雑誌の中から、その小説のイメージに合った人の顔の写真とか、景色、静物などを切り抜き、思いを巡らせ、想像を駆使し、小説に仕上げている。
対談の最後は森茉莉の文学を評価してくれた人に焦点をあてて語られている。
茉莉の文学を評価してくれた作家に室生犀星、三島由紀夫がいる。三島由紀夫は『甘い蜜の部屋』を日本のコレット版であり、官能的な傑作であるとベタ褒めしている。
茉莉の独特さというのは言葉の世界で、茉莉の文章を受け入れる人ならエッセーだろうが小説だろうが何でも読めるが、茉莉の独特な雰囲気、言葉遣い、文章のニュアンスに体質的について行けない人はついていけないというはっきりした分かれ方がある。
評論家などは「作者の夢に付き合わされただけである」なんて、無視に近いような態度で片付け、茉莉を失望させている。
「私の小説はきらいな人は永遠にきらいで、決して好きになることはなく、好きな人はてもなく好きになってしまうというような小説らしい」と茉莉も述懐している。
群ようこさんの『贅沢貧乏のマリア』は茉莉の文章に、群さん自身の人生を照らし合わせ、茉莉のお惚気とも取れる暢気な語り口に、彼女がいちいち反応し、イライラしているのが非常に面白かったのだが、これもやはり体質の違いからくるものなのだろうと思う。
この対談を聴き終えてみれば、茉莉の作品の中に書かれていることがほとんどで、森茉莉ファンにとってはさほど目新しさの無いエピソードの連続で、期待が大きかったせいか、私としてはちょっと肩透かしをくらったような内容でしたが、私自身ここしばらくは読むのを忘れていた森茉莉全集を久しぶりに再読できたというのが収穫といえるでしょうか。